Statement
自分自身の活動を言葉にすることでそこに縛られ、表現したいものを表現できなくなるのではという考えがあったが、私には以下の事柄が1)自分自身の振り返りのアンカーとして重要であること、2)探求の幅を制限したとしても十分な領野を持っている、と感じられたのでここにステートメントとしてまとめることとした。
端緒
私が本格的に絵を描こうと思ったのは、私がペイントアプリケーションのエンジニアだった頃に遡る。ちょうど、AI生成によるアート作品がネット上に溢れ始めた頃で、私たちはそもそもなぜ手で描くのか、手で描くことの意義は何か、という問いに向き合わなければならなかった。
当時も、そして今もかもしれないが、AIアートに対する激しい反感がアーティスト達の間に広がっており、玉石混淆、賛成派も反対派も様々な意見があったのを思い起こされる。私も私でそのことを考えていたが、しかし答えは出ず、何ヶ月もずっとそのことを考えていた。
私はメモ帳を持って一日中歩いて思いついたことをまとめ考えてを繰り返していた。ある日、代々木公園を散歩中にベンチで考えている間に雪が降り、いつの間にか頭に雪が積もったのを面白いと思った外国人観光客に写真を撮られたということもあった。
テンペラ
私はペイントアプリケーションを作る際に画材を試すことがあって色々な画材をちょっとづつ触って試すということをしており、テンペラと出会ったのはその時のことだった。
それまでどれほど考えても何かが納得いくという感覚を得られなかったのに対して、テンペラはやってみた瞬間にこれで合っているという確信が得られたのを覚えている。
これが不思議だったのは、あれほど頭を悩ませ、この事柄はあの事柄と異なりといった具合に事物を適切に峻別し、さらに筋道をたて明晰に理解しているはずの事柄より、テンペラが持つ合っているという感覚が強かったことだった。
合っていること
この合っているという感覚に気づいた時、自分がこれまで考えていた問い"手で描くことの意義は何か"が、実は私自身から由来したものではないことに気付いた。
私はどうも理性には各個人に合っているか合っていないかに関わらず自走する性質が内在しているように思う。理性は私たちの肉体や思考力を借りて自らのアイディアを結論へと導くが、その宿主の意向に沿うわけではない。
その帰結が本来的であると感じられるような解を得るには、理性に対して規範を与えるこの合っているということをよく吟味しなければならない、と私は考える。
そこで私はすべての事柄に根拠を付与するこの合っていることの正体に接近することが重要であると考えた。
擬神学
この合っているという感覚の背景には不可思議なものがあるように感じられる。それは理性の介入なしに事物に正当性を与え、しかし、理性で観察してもなお合っているという確信を残留させ続ける。
さらに、不思議であるのはこの合っているという感覚が、私という内にあるのか、私の外にあるのか不明でもあることである。確信は自分の中に感じられるように思われるが、その確信の由来そのものを尋ねると、それが内外どちらであるのか分からなくなる。
この存在を言葉で表しても、また、抽象的に表現したとしても、なお、不明なものは不明なままであった。私はこの存在がどんな存在であるかをより具体的に示したかった。そうして、私はこの存在の取り扱いとその接近に関してもまたしても大変迷ったが、ここで再びテンペラがヒントをくれた。
1844年にMerrifieldによってA Treatise on Paintingがリバイバルされ、それ以降、テンペラは現代的な装いを得たものの、今もなおテンペラは過去の宗教画との接続を保っている。これらで表現される神や神聖なものに対する具象を伴った描画は私がまさにやりたいと考えていたことと符号していた。
そこで私は、この不可思議な合っているという存在を上記の事情を鑑みこれを一旦神と置き、神とは何かという問いと重ねながら、その存在とは何かを解いていく。この往復の試みを擬神学と呼ぶ。それは、神学という構造だけを借りて別の存在を流し込むからPseudoを付与しこれを擬神学とした。